第3章『俳優−里見浩太誕生!』

東映に入社した邦俊は、養成期間中、魚河岸で働きながら俳優座で基礎を学んだ。 半年がたったころ、邦俊に人生の岐路ともいうべき選択を東映は要求する。
東映は、東京大泉の撮影所では現代劇、京都撮影所では時代劇を撮っていた。 そのころ、時代劇は黄金時代と呼ばれ、大スターがズラッとならび、新人の出る幕などないように思われた。 対して、現代劇は高倉健のみで、新人がスターになれるチャンスがあるようにも思われた。しかし、制作されている映画は ほとんどが時代劇であった。
暇さえあれば、鏡とにらめっこをしてどうしたものかと考えあぐねていた。結果的に、邦俊は 時代劇を選択し京都へと行くことになるのだが、その最大の理由は経済的なものであった。 京都には寮があり、新人の給料でも何とかやっていけると邦俊は考えた。しかし、心の底には小さな頃からの 時代劇への憧れがあったに違いない。
昭和31年秋、東映京都撮影所の門をくぐった邦俊は、もう明日からすぐにでも銀幕のスターに なれるものと思っていた。ところが、邦俊らニューフェイスに与えられた部屋は、悪役などの大勢いる 大部屋で、掃除などをさせられたり・・・。ある日、殺陣師に呼ばれた邦俊は立ち回りに絡めさせてもらえる と、わくわくしていると「あっ!君、そこで死んでてくれ」その一言で邦俊は、 死体となってしまったのである。
そんな日々が続く中、無理な撮影が続き体調を崩してしまう。 一時は「結核」とまで診断されたが、結果的には気管支炎で、3ヶ月休養することになった。 邦俊が21歳の誕生日を迎えるころのことであった。
休養を終えて1ヶ月もした頃、初めて役らしい役がまわってきた。関西喜劇人総出演の コメディーで『上方演芸底抜け捕物帖』での、円山栄子の恋人役である。 しかし、邦俊にはまだちゃんとした芸名がなかった。とりあえずつけた芸名は、「鏡小五郎」。 桂小五郎をもじった、いいかげんなものだった。
そして次の作品『誉れの陣太鼓』では、長谷川一夫をもじって、自分の故郷の川の名前を とって「富士川一夫」と名のった。そして、実質的デビュー作となったのが『天狗街道』である、 この作品で、企画担当プロデューサーに「里見というのはどうだ。『里見八犬伝』の里見だよ。 ・・・・・・・・・・東映はこれ一本で黒字になったんだ。里見は縁起のいい名前なんだ。」 そして、故郷の富士山の雄大な姿を見て浩然の気を養うという意味の「浩」に、時代劇役者 らしく「太郎」をつけて「浩太郎」となったのである。 いよいよ、「里見浩太」の誕生である。
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