雨は降る降る人馬は濡れる、
       越すに越されぬ田原坂


【第一部】・・・・・『英雄野に下る』 

 吉之助(西郷隆盛)は、斉彬の使いで諸般に出入りし、尊皇攘夷論で婦負性赫々たる学者達と親交を結び、 薩摩という小さな殻を飛び出して自己の世界を拡げていった。
吉之助にとって斉彬は主君であると同時に人生の師とも言うべき存在であった。
それだけに斉彬の訃報に接した時の取り乱し方は尋常ではなかった。
勤皇僧で知られる月照は孝明帝から勅許を仰ぐのか役割だった。その月照が東目送りとなり、吉之助はその身を預けられ 月照とともに海に身を投げるが命をとりとめた。
しかし幕府の追求を恐れた薩摩藩は、刑死した在任を身代わりにして、 危険人物西郷吉之助の名をも墓地に埋葬してしまう。
 そして奄美大島に潜伏を命じたのである。そこで、吉之助は愛加那と婚礼をし文久元年、長男菊次郎が生まれる。

【第二部】・・・・・『桜島は死せず』

 明治六年十月二十三日、世にいう征韓論に負けた参議・西郷隆盛は、日比谷の大政官議定所に辞表を提出し、姿を隠した。
朝から小雨が降り続く中を西郷は六尺の巨体を蓑笠で多い、手に釣り竿と魚籠を下げ、飄々と隅田川の土手を さまよっていた。
持病の肥満症治療のための下剤で脱水症状にかかり特徴のギョロ目は光を失い、表情はひどく暗かった。
時に四十六歳、西郷は病んでいた。日本最期の内乱「西南戦争」はこれより四年後のことであった。