娘よ、息子よ なぜにこのような
             悲しい別れをせねばならぬのか!


【第一部】・・・・・『京都動乱』 

 文久二年、、会津藩主松平容保は精鋭千人を率い、上洛した。この頃京都は尊皇攘夷派による暗殺の坩堝と化しており、 連日、白昼から殺し合いが続いていた。だが、容保はすぐにはその鎮圧にかからなかった。
「公武一和」と旨とする容保には、話せば判るはずという信念があり、我慢を重ねた。  攘夷派浪士達はこれを逆手に取り、佐幕開国派に対する暗殺の刃はさらに激しさを増し、容保はついに鎮圧に乗り出した。
 「八・一八の政変」「池田屋騒動」と長州を筆頭とする攘夷派との全面武力戦争で、新撰組の活躍もあって容保は圧倒的勝利を得た。
しかし天皇の死により、長州が巻き返し、会津は急激に窮地に追い込まれてゆく。
慶応四年二月、「白虎隊」が結成され、歴史という船は若き少年達を乗せ、動乱という大海へと出航していった。


【第二部】・・・・・『落城の賦』

 容保は、あくまで戦争を回避せんと、西軍に対し幾度となく恭順の姿勢を示したが、東征軍参謀は非常にもこれを却下する。
ここに於いて、会津を盟主とする「東軍」と薩長士を筆頭とする「西軍」との全面戦争に入る。 だが、物量の差と鉄砲の性能の違いなどで、東軍は各地で敗戦が相次ぐ。
 一方、白虎隊士中二番隊は、戸の口原から退却し、砲弾の中をかいくぐりつつようやく飯盛山山中に たどりつく。だが、そこから望む鶴ヶ城は猛煙に包まれていた。 帰るべき城を失った少年たちは、山中で壮絶な自決を決意する。